夜叉九郎な俺
第51話 独眼竜政宗





 ――――1581年3月




 唐松野の戦いから1ヶ月と僅かな時が流れた。
 宿敵である安東愛季との戦を制した戸沢盛安は愛季が負傷で動けない隙を突いて続けざまに行動を開始し、兼ねての目標であった湊城と大湊の町を影響下に加える事に成功。
 本来ならば、もっと多くの時間をかけるところであったが、盟友である津軽為信の調略により繋ぎを取っていた浅利勝頼の手引きが大きく影響した。
 湊安東家の本拠地であり、出羽北部でも重要な拠点である湊城と大湊の町は間違いなく、安東家の所領の中でも戦力を集中させた堅固な場所。
 にも関わらず、予想外の早さで落とす事が出来たのは一重に為信の地道な調略があったからにほかならない。
 浅利勝頼への調略と安東道季に対する湊安東家の独立工作。
 為信が調略を開始した頃はまだ、戸沢家が優勢である状況が定まっていなかったために思わしくなかったが――――。
 庄内の平定による勢力の拡大に加え、此度の唐松野の戦いでの勝利が安東家に対する大きなアドバンテージを得る事になった。
 為信の調略が此処にきて一気に花開く形で盛安に味方する事になったのは無理もない事だろう。
 また、浅利勝頼と同様に湊安東家の通季が湊城を開城する動きに出たのは一門衆である安東種季と家臣の三浦盛永から唐松野の戦いの顛末を聞いていた事が原因であった。
 通季も以前より為信から盛安の事を伝え聞いていたが、今までは僅かに歳下でしかなかった事もあり、半信半疑だった。
 しかし、通季にとっては複雑ではあるが、安東家史上でも偉大な当主と断言しても良い愛季に勝利した手腕は盛安が傑物である事を間接的ではあるが証明している。
 それは出羽北部の覇者が移り変わった事をも示していたが、通季の視点からすればそれだけではない。
 愛季が盛安に敗北したという事は自らの居場所を奪われずにすむ可能性があるという事だ。
 一応、愛季が湊、檜山の両安東家を統一した際にあくまで愛季が湊安東家の当主を務めるのは道季が成長し、一人前になるまでだと聞いていた。
 しかし、愛季には業季、実季を始めとした後継者が居り、自らの息子に後を継がせようしているのは否定出来ない。
 後数年もすれば愛季も隠居するだろうが……この時に業季か実季に当主の座を譲った場合、通季の立場は本格的になくなってしまう。
 それを危惧すれば、通季にはこのまま愛季に属する理由はない。
 父である安東茂季も兄である愛季の傀儡であった事を苦々しく思っていた事からも息子である通季が愛季と袂を分かつ事は至極、当然の事であった。
 故に湊安東家は戸沢家が攻め寄せてきた際に開城する事を決断したのである。
 無論、浅利勝頼が為信の調略通りに動いた事も否めないが。
 そういった点で湊安東家と浅利勝頼の行動を踏まえると、愛季を戦にて打ち破った事は出羽北部においては盛安自身が思っている以上に影響力が大きかった事が窺える。
 特に一門衆であったはずの湊安東家が盛安の求めに応じたのは一つの家として独立させたかった事もあるのだろう。
 愛季に完全に差し押さえられていた形であった湊安東家を完全な形で分離するには戸沢家に属するしかない。
 完全に安東家から離れてしまえば、檜山安東家の影響を受ける事はなくなるため、通季も居場所を奪われる心配もなくなるのである。
 盛安もまた、通季の心情を理解し、通季の身柄を保証した上で受け入れた。
 愛季の統治に不満を持っていたという点に関しては同じ思いを抱えていたからだ。
 尤も、敗者である側の通季の事を無条件で認めるわけにはいかなかったので、海や河川の流通に関する事などの幾つかの権限を委ねて貰う形を取っている。
 これは安東家が抑えていた河川による流通の関税を撤廃させ、内陸部の所領への物資の流通の問題を考えての事であるが……。
 安東家の影響力を排除した事で大きく恩恵を受ける事になるのが内陸部に所領を持つ戸沢家と小野寺家であっただけにこの影響は計り知れない。
 何しろ、今までは財貨や物資の流通の点で安東家に押さえ込まれていたのだから。
 枷とも言うべき安東家からの影響がなくなったとなれば、領内の統治も楽になるし、豊かにもなるだろう。
 それに真室の戦いの後に和睦が成立している小野寺家にも借しを与える事にもなるのでこの一手は重要である。
 小野寺家も長年に渡って争ってきた相手でがあるが、南に最上家という脅威を抱えている今、戸沢家との関係を悪くする事は後々で不利になってくる。
 湊安東家と浅利勝頼が愛季の下を離れた事は安東家の勢力の半分近くが戸沢家の勢力に取り込まれる事となり、同格であった力は完全に逆転する事にもなるのだ。
 一大決戦とも言うべき唐松野の戦いの齎した結果は出羽北部の覇者を決めるだけでなく、奥州で新たな第三の勢力と言うべき大名を誕生させる事になったのであった。


















 ――――1581年4月





 盛安が盟友、為信の手引きで湊安東家を戸沢家方に取り込み、酒田の町と同じく大湊の町を中心とした財貨や物資の流通の整備を開始したその頃――――。
 出羽国の中でも南の地――――別名、南羽前とも呼ばれる国で一人の若き人物が初陣を間近に控えようとしていた。

「またしても、夜叉九郎は勢力を拡大したそうだなっ!」

「はい。正に電光石火の如くの動きであったと黒脛巾の者達より聞き及んでおります」

「むむむ……よりにもよって、俺の初陣の寸前で見せ付けてくれるとはやってくれるわ」

「しかしながら、戸沢殿にそのような意図はありますまい。あの方を見る限りですと機を見計らっていたようにも思えますが」

「解っている! だからこそ、腹が立つのだ! 夜叉九郎は俺よりも一つしか歳が違わないというのに――――」

 唐松野の戦いの顛末を家臣から聞き、声を張り上げる若き人物。
 歳の頃は盛安よりも一つだけ若い15歳。
 しかしながら、盛安が家督を継承するよりも1年ほど早い1577年には既に元服を迎えたという経緯を持ち、若いながらその武者姿は初陣とは思えないほど馴染んでいた。
 三日月を象った飾りを誂えた兜に黒漆五枚胴と呼ばれる黒い甲冑。
 それに加え、何かしらの原因で失明したかと思われる閉じられたまま、決して開こうとはしない右目が印象的だ。
 身の丈はそれほど高いとは言えないが、黒い具足で統一された身なりは思わず目を引くものがある。
 また、家臣とのやり取りを行う言葉遣いからして苛烈な気質を持っている人物であろうか。
 盛安よりも若い年齢である事からしても人間としては成長途上なのかもしれない。
 だが、盛安と同じく若い新たな世代である事を思えば、この若き人物もまた新たな将星たる者であろう。
 若さ故に血気に逸っている彼の人物――――その名を伊達藤次郎政宗という。





 ――――伊達政宗





 果たして、奥州の諸大名の中で現代という時代において、この名前ほど有名な人物は他に存在しているのだろうか。
 伊達藤次郎政宗、独眼竜政宗、梵天丸。
 通称や幼名に加えて後世に名付けられた異名の何れでさえも何処かで聞いた事のある名前である。
 但し、1581年(天正9年)現在では漸く初陣を飾る頃であり、その名はまだ伊達輝宗の嫡男であるという程度の認識しかない。
 しかしながら伊達家中では大いに将来を期待される俊英で輝宗も叔父の縁により名僧と名高い虎哉宗乙を師として政宗につけているほどである。
 更には早い段階から元服の儀を行い、伊達家中興の祖といわれる伊達大膳大夫政宗にあやかった名である政宗を名乗っている。
 これだけでも政宗が若くして期待されている事が伺えるだろう。
 まだ明確な実績はないとはいえ、奥州に新たなる戦雲を呼び込むであろう可能性を秘めた政宗は地に伏せる臥龍の如く飛翔の時を待っていた。

「こればかりは仕方がありませぬ。数年前に家督を継承した身である戸沢殿と政宗様では違い過ぎます」

「……小十郎」

 血気に逸る政宗を諌める小十郎と呼ばれた家臣。
 歳の頃は政宗よりも10歳ほど歳上で、ほんの僅かに矢島満安よりも上といったところか。
 20代半ばという事もあり、貫禄があるというわけではないが、年若い政宗に対する経緯を払った態度からして礼儀正しく光明正大な人物である事が窺える。
 政宗を相手に家臣としての立場を弁え、年長者として導こうと務めている家臣――――名を片倉小十郎景綱という。
 景綱は後に”智の景綱”とも呼ばれる政宗の忠臣にして、軍師的役割を務めた事で知られる人物。
 10代前半の若い頃より生涯の主君である政宗に仕えた景綱は今までの自らの半生を政宗と苦楽を共にした側近中の側近である。
 時には兄のように、時には武芸の師として政宗を教育した景綱は年齢や境遇こそ全く違えど、主君と深い結び付きを持つ直江兼続にも匹敵するほど重用されていた。
 盛安が愛季と一戦交え、結果を出した事で逸る政宗をこうして諫められるのもそうした背景があるからだろう。
 景綱の言葉に些か熱くなっていた政宗も少しだけ頭が冷える。
 考えてみれば、盛安は今の政宗の立場とは大きく異なるのだ。
 現状の段階で後継者である事が示唆されているだけの身とは違い、当主の立場にある盛安。
 これでは比べようがあるはずがない。
 景綱の言葉は唯々、事実を示していた――――。


















「全く……藤次も小十郎も難しく考えすぎだ。俺達よりも少しばかり、歳上である夜叉九郎が強いのは間違いないのだから此処で議論しても何も始まらないだろ」

 政宗と景綱が盛安について語り合う中で気怠そうにその話を聞いていたもう一人の若き人物が口を開く。
 伊達家の嫡男であり、後の当主であろう立場にある政宗に対して通称の藤次郎の名で呼ぶ事からすれば家臣の立場ではない。

「……藤五」

 寧ろ、政宗の方からも通称で名を呼んだ事から察するにもう一人の若い人物は景綱とは違う立場で深い繋がりがあるのだろう。
 盛安の事を少しばかり歳上であると評した事も踏まえると歳の頃は一つばかり政宗より若い程度だろうか。
 毛虫を象った前立に紺糸威五枚胴と呼ばれる甲冑を身に付けているその姿は決して後ろに退かないと言う心意気を示している。

「成実様らしゅうございます。その明瞭な御意見は私には考えられませぬ」

 見事に政宗とのやり取りを諫められた景綱がもう一人の若い人物の名前を呼ぶ。
 その名を――――伊達藤五郎成実という。
 成実は伊達家の一門衆であり、後には”武の成実”と呼ばれる事になる伊達家随一の猛将で知られる人物。
 彼もまた、政宗と同じく初陣を間近に控えており、此度の相馬家との戦では共に同じ戦場に行く身でもあった。
 成実は政宗よりも更に若いという事もあり、まだまだ深く物事を考えるような人物ではないようだが、ある意味では盛安の事を客観的に捉えている。
 それ故に景綱は褒め言葉として口にしたのだが……。

「馬鹿にしているのか、小十郎?」

 日頃から勉学よりも武芸の腕を磨く事に熱心な成実には褒め言葉には聞こえなかったらしい。
 しかも、日頃より勉学を嗜む景綱が相手であるから尚更だ。
 これでは自分がまるで何も考えていないように見られているとすら思えてしまう。

「若殿、景綱殿も悪い意味で言っているわけではありませぬぞ。若殿の仰った事は的を射ております故」

「む……」

 景綱の言葉に不満といった表情をする成実を家臣と思われる人物が諌める。
 まるで政宗に対する景綱と同じように成実を諌めた彼の人物の名は萱場源兵衛元時
 元時は成実の家臣で、若くして伊達家中随一の鉄砲使いとして知られる人物。
 景綱とは同い年であり、共に若い主君を支えている境遇もあってか仲が良い。
 失言とも捉えられた景綱の言葉の裏に秘められた意味をすかさず、口に出来たのはそういった間柄だからであろうか。
 元時ははっきりと成実の言葉を肯定した上で見事に主君を諌める。

「確かに藤五と元時の言う通りだ。夜叉九郎が強いのは考えるまでもない。俺達とそう変わらぬ年齢で大宝寺義氏、安東愛季といった羽後の大名達に勝利したのだから」

 成実と元時のやり取りを見ながら、漸く客観的に盛安の人物を判断した政宗。
 盛安が強いという事は今まで話に聞いてきた戦の事を考えれば態々、議論するまでもない。
 矢島満安、大宝寺義氏、安東愛季は言うに及ばず、盛安自身は直接戦っていないとはいえ小野寺義道だって名のある武将だ。
 出羽北部でも名を知られた者達を尽く打ち破ってきた事は並みの人物では成し得ない。
 こと、戦に関しては盛安に匹敵する武将は奥州でも数少ないだろう。

「庄内平定の時を除く仕置きに関しては甘いとも思えるが――――」

 故に政宗は非情になり切れない人物であろう盛安の事を勿体なく思う。
 盛安は夜叉とも鬼とも呼ばれ、並々ならぬ武勇の持ち主であるが……政宗からすれば天下を望んでいないように感じる。
 事実、鎮守府将軍を拝命した事で奥州の覇者たる名分を得てはいるが、征夷大将軍ではないこの官職では政権を打ち立てる事は出来ない。
 恐らくは野心とは無縁の人物なのであろう。
 そこに政宗は盛安の人物像と限界を見たのである。
 だが、盛安の人となりは決して悪ではない。
 本気で天下を望むのならば、盛安のような何処かで義を重んじる事も必要だからだ。
 それに盛安の在り方は父の敵であった上杉謙信のような神懸かった何かがあるような気もしてならない。
 天下こそ望むような人物では間違いないのだろうが、純粋な一人の武将としては感銘を覚える部分もある。
 特に歳が近い事もあるから尚更である。
 尤も、盛安という人物は決して自分と相容れる事はないのかもしれないのだが――――。
 そういった人物が奥州に居るという事は悪くはない。
 越えるべき壁ではあるが、武将として一つの目指すべき姿であると思うのも決して嘘ではないのだ。

「純粋な一人の武将として見るならば、俺もかくありたいものだ」

 だからこそ、政宗は北にある角館の方角を見据えながらぽつりとそう呟くのであった――――。


































 From FIN



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