夜叉九郎な俺
第35話 庄内平定





 ――――1580年10月





 盛安が兄、盛重と弟、平九郎と遠乗りをしてから、約1ヶ月――――。
 早くも準備が整っていた軍勢を率い、大宝寺家の本拠地である尾浦城への進軍を開始した。
 常備兵力の内の1500と新たに加わった雑賀衆の兵力200を合わせた1700もの軍勢に矢島満安、鮭延秀綱らの手勢500を合わせた2200もの軍勢。
 盛安は今までの戸沢家の動員していた倍以上もの兵力を以って、庄内の平定へと動き出したのだ。
 また、盛安は大宝寺家の居城である尾浦城を攻める前に盟約通り、上杉家の本庄繁長に援軍を要請した。
 庄内を平定する際は万事、繁長に相談するようにと直江兼続からの助言があったからである。
 本来ならば盟友であるとはいえ、領地の平定を目指す際に援軍を依頼する事は憚られるところであるが、相手が上杉家であるならばその心配はない。
 あくまで義によって動くという信念を持つ上杉家は決して盟約を違えるような真似をする事がないからである。
 そのため、盛安としても安心して援軍要請を行う事が出来たのだ。
 また、繁長の方も戸沢家が軍備を整えていた事を以前より把握しており、すぐに軍勢を動かせる状況にあるという事で快くその要請に応じる。
 現状で警戒すべき相手である最上義光は和議を結んでいるとはいえ、未だに最上八楯を完全に従わせる事が出来ておらず、軍事行動を起こす事が出来ない。
 これにより、繁長は後顧の憂いもなく、動く事が出来たのである。
 無論、本庄には万が一の抑えの軍勢も残しているだけに抜け目がない。
 こうして、盛安率いる2200の軍勢に繁長率いる軍勢1000ほどが加わり、大宝寺家に攻め入った軍勢は3200にも及んだ。
 傍目から見ればそれほど多く見えない軍勢数だが、勢力が縮小した今の大宝寺家からすればこれは途轍もない軍勢数で籠城戦に持ち込んだとしても勝機がない。
 同盟相手である小野寺家は昨年の段階で戸沢家との戦に敗北して雌雄は決してしまっているし、嘗ての盟友である上杉家は戸沢家の盟友として立ち塞がっている。
 しかも、北の由利郡も戸沢家に抑えられている上に東の真室も戸沢家に抑えられているのだ。
 最早、四面楚歌も同然と言って良い状況にあり、打つべく手段も存在しない。
 大宝寺家は此処にきて、滅亡の窮地にへと立たされていた。

















「兄上、誠に残念ではありますが……戸沢殿に降伏するしかありますまい」

 戸沢盛安率いる軍勢と本庄繁長率いる軍勢が来襲したとの報告を聞き、大宝寺義興が淡々と事実を告げる。
 度重なる重税により領民には見放され、援軍を望む相手も居らず、軍勢数においては勝ち目もない現状では打つ手のない事は明らかだ。
 しかも、敵方の盛安は大宝寺家が使者を遣わした相手である織田家から奥州総代の役割を受けており、屋形号を受けた義氏よりも名目上は上である。
 それに朝廷から正式に鎮守府将軍に任じられている盛安は出羽国を統括する権限も持っているため、大宝寺家を従わせようとする行動は正当性もあった。

「それはならぬ。一戦も交えずして、降るなど武門の名折れぞ」

 故に説得を試みた義興であったが、大宝寺家の現当主である義氏からは拒否の返答が返ってくる。

「その御気持ちは私とて、良く解り申す! しかし……最早、そのような事を言っている段階では無いのです。
 残念ながら兄上が信長様に賜った屋形号も朝廷より鎮守府将軍に任じられた戸沢殿には及びませぬ。軍事力だけでなく、名目上も負けているのです。
 しかも、酒田を始めとした庄内の領民は戸沢殿を支持されている様子。我らに味方と呼べる者は存在しませぬ。兄上! それでも尚、戸沢殿との戦を望まれるのか!」

「くどい! この義氏に降伏等の言葉はありえぬ!」

 その返答に対して、尚も強く説得する義興だが、義氏からの返答は拒否の一点張りで聞く耳も持たない。

「解り申した。それが兄上の御存念ならば、何も言いますまい。ですが、それでも私は兄上の命には従えませぬ。……御免!」

 これ以上は説得する事は出来ないと判断し、義興は袂を分かつ事を決断する。
 勝てもしない戦に望むなど、兵や民を苦しめるだけでしかない。
 そのように判断した義興は義氏には従わず、自らが別当職を務める羽黒へと身を退く。
 後は御館の乱以前に親交のあった本庄繁長の伝手を頼りに盛安に降伏する旨を伝えるつもりだ。
 義氏の度重なる政策により、疲労しきった今の大宝寺家の力ではまともな戦にはならない。
 更に兵や民を苦しめる事にしかならないだろう。
 庄内で権勢を誇った大宝寺家の一門衆としてそれを許すわけにいかない。
 義興はその一心で兄と袂を分かち、盛安に降る事を決断する。
 この時、義氏の振る舞いに苛立ちを覚えていたために気付かなかったが――――。
 尾浦城から去る義興を追う者はなく、首を取ろうとする者も居なかった。
 それが何を意味していたのかを義興は全てが終わるまで気付く事はなかったのである。

















「……義興は出て行ったか。これで良い」

「殿……」

 弟、義興が尾浦城を去った事を確認した義氏は一息を吐く。
 今までの問答は全て演技だったのだ。
 如何に領民を顧みる事なく、軍事行動を続けてきた義氏も今の状況が戦にならない事は承知している。
 領民は敵方に味方している。
 大宝寺家に従っている国人衆も日和見を決め込んでいる。
 戸沢家と敵対している安東家は津軽家が背後に居るために動けず、最上家も最上八楯と上杉家の存在により動けない。
 更には南の蘆名家も盛氏の死去により、家中が纏まっていないために動ける状態になく、小野寺家は既に戸沢家に敗れており、勢力は激減している。
 唯一、戸沢家に待ったをかけられるのは津軽家だろうが、彼の家も戸沢家と盟約を結んでしまったため、交渉を依頼するに足りない。
 最早、完全に孤立している現状に打つ手はなく、外交を行うべき相手も存在しない。
 それ故に援軍を求める先も無い。
 家臣の阿部良輝はこの状況にまで追い詰められた義氏の内心を知ってか、唯々言葉を失うばかりである。

「そのような顔をするな良輝。義興さえ無事に戸沢の下へ行ってくれれば大宝寺が滅ぶ事はないのだ。それに其方の息子、貞嗣には義興を助けよと命を下しておる。
 家中の者共で儂に従ってくれた者達も皆、義興に従うように命を下し、尾浦を退去させている。最早、城には儂と其方しか居らぬ故、案じるような事は何もない」

「ですが……」

「構わぬ。このような仕儀に相成ったのも儂が過っていた証拠よ。戸沢はその儂に止めを刺しに来たに過ぎぬのだからな」

「そうですか……。ならば、この良輝も何も申しますまい。御最期まで御付き合いさせて頂きまする」

「……すまぬ」

 義氏の覚悟のほどを汲み取り、良輝は主君に殉じる道を選ぶ事を決断する。
 義興が戸沢家に降る選択を選び、貞嗣もそれに従うのであれば大宝寺家も安倍氏も滅ぶ事はないし、安倍氏と並ぶ忠臣である金野氏も滅ぶ事はない。
 また、土佐林氏や池田氏、板垣氏を始めとした義氏派の国人衆も滅ぶ心配はなく、義興も恐らくは羽黒別当として生き延びる事が出来るだろう。
 それに盛安の噂を聞く限りで判断すると、日和見を決め込んだ国人衆を許す事はない。
 主君を見限り、我が身の保身を優先させたような人物が降る事を良しとしない人物であるように見受けられる。
 降る事が家を思っての行動であるならば、降伏する事を認めるであろうが、そうではない者達を許すような人物であるようには良輝には見えなかったのだ。
 その事は義氏も同じように考えていたらしく――――。

「この儂を見限った国人衆よ。其方らも道連れにしてくれる――――悪屋形、大宝寺義氏の死に様を精々怯えながら見る事だ!」

 天を仰ぐかのように叫び、自らの首筋に刀を当て、そのまま一気に頚動脈を斬り裂き、自決する。
 最期まで大宝寺の名に恥じない武士であろうとした潔い最後であった。 

「殿! 御一人では逝かせませぬ――――この良輝も御供仕る!」

 義氏の死を見届けた良輝も主君に倣って同じく自らの首を斬り、自決して果てる。
 幾度となく、国人衆の反乱に悩まされ続けた大宝寺家に在って、長年に渡り仕え続けた忠臣もまた主君に殉じて最後を遂げる。
 その死に際の表情は気が晴れたかのように晴れ晴れとしたものであった。

















 ――――1580年10月末





 義氏と良輝主従の予測通り、盛安は降伏する旨を伝えてきた義興を受け入れ、日和見を決め込んでいた国人衆達が降る事は良しとしなかった。
 盛安曰く「幾度となく主君に従わず、最期まで反旗を翻し続けた者達は許しはしない」との事。
 それに対し、義興は兵や領民がこれ以上、苦しむ事を良しとせず、兄を説得したが受け入れられなかったと言う理由での降伏であったため、認めたのである。
 盛安は大宝寺家の命脈を保とうとし、無用な戦を避けようと努めた義興の事を大いに評価したのだ。
 義興の降伏を認めた後、義氏が自決して果てた事を知った盛安はその見事な死に様に敬意を評した後、大宝寺家に従わなかった国人衆達を次々に攻め滅ぼしていく。
 この時の戦は盛安が自ら陣頭に立って戦ったのだが、その姿は鬼九郎の名に相応しいほどに鬼気迫るものがあったと言う。
 何しろ、義氏が死に、戸沢家が侵攻を開始した直後、国人衆達は慌てて、戸沢家に従う旨を盛安に伝えたのだが、それらの意見は全て一蹴された事からもそれが窺える。
 盛安は主君や主家である大宝寺の家名を残す努力をしなかった者達を許さない構えを見せたのだ。
 それ故に尾浦城を中心とした庄内の平定の戦では盛安は最期まで従った国陣衆を除く国人衆を取り潰すという行動を取った。
 だが、この際に盛安は領民達には一切の手出しをする事を禁じ、率いてきた軍勢にもそれを徹底させたため、大宝寺家の治めていた領内が荒れ果てるような事もなかった。
 一見すれば苛烈にも思えるような対処を選んだ盛安だが、あくまで冷静だったともいえる。
 日和見を決め込んでいた国人衆を一掃し終えた盛安は見事な死を迎えた義氏を弔い、屋形号を得るまでに権勢を誇ったその名に報いる形で平定を終える。
 盛安は領民からは悪屋形と称され、羽黒山の衆からは不敬の精神の持ち主とまで酷評された義氏の事を辱める真似を決してしなかったのだ。
 あくまで義氏は織田信長より屋形号を賜った傑物であるとした上で弔ったのである。
 この心遣いには義氏が自決するまで、兄の思惑を知らなかった義興も感謝の思いで応じる。
 戸沢家に降る時に義興が懸念していた事が盛安が義氏の名を辱める事をするか否かであったからだ。
 袂を分かつ事を選んだとはいえ、長年に渡って支えた義氏の事を見限ったつもりはない。
 大宝寺家の事を思うが故に決別したのだから。
 それ故に盛安の心遣いには感謝するしかない。
 義興は盛安という人物が15歳という若さにも関わらず朝廷より鎮守府将軍に任じられ、信長に認められたとされる器量を垣間見る。
 彼の人物ならば、庄内を任せても大丈夫だ――――義興はそのように思い、大宝寺家は盛安に従う旨を伝え平伏する。
 大宝寺義興が正式に戸沢家に降った事を最後に、こうして1ヶ月にも満たない僅かな期間の間に鬼九郎の名を更に轟かせるに至った庄内平定の戦は幕を閉じたのであった。





・庄内平定戦結果





 戸沢家(残り兵力 2030)
 ・ 戸沢盛安(足軽770、騎馬480、鉄砲200) 1450
 ・ 矢島満安(足軽100、騎馬70、鉄砲20)   190
 ・ 鮭延秀綱(足軽80、騎馬100、鉄砲10)   190
 ・ 鈴木重朝(鉄砲200)        200



 上杉家(残り兵力 1000)
 ・ 本庄繁長(足軽300、騎馬400)      700
 ・ 傑山雲勝(足軽250、鉄砲50)      300



 庄内国人集(残り兵力 なし)



 損害
 ・戸沢家            170
 ・上杉家            なし
 ・庄内国人衆            500



 討死 東禅寺義長、東禅寺勝正、砂越氏維、来次氏秀、高坂中務、他
































 From FIN



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