夜叉九郎な俺
第6話 津軽為信





「浪岡が落ちる、か……こうなれば、北畠顕家公より続いた彼の家も形無しだな」

「そうですな、殿。しかし……問題は此処からでございますぞ。陸奥の名門が滅んだとなれば他家に攻め入られる大義名分を与える事にもなりまする」

「解っている、祐光。俺もそれを危惧していた。浪岡は特に安東と親密であったからな。これで、南部だけではなく安東とも戦わねばならなくなる」

「その通りにございます。浪岡を滅ぼした事により我らは南部、安東に挟まれた形となりまする。そろそろ、他家と盟約を結ぶ事も考えるべきかと」

「……確かに祐光の申す通り、何処かと手を結ばねばならぬ。一応、大宝寺とは盟約を結んでいるが、あれは既に先が見えている」

 落城する浪岡城の姿を見つめながら2人の人物が言葉を交わしている。
 1人は身の丈、6尺はあろうかという大柄な体躯に胸に垂れるほどに長く生やした顎髭を持つ、20代後半といった年齢であろう人物。
 もう1人は40代前半といった年齢の軍配を持つ、軍師または参謀であろうと推察出来る人物。
 それぞれ名を津軽為信、沼田祐光と言った。





 ――――津軽為信





 元の名は久慈為信と言い、正室の大浦戌を娶った際に大浦家の婿養子となったという経緯を持つ、戦国時代の奥州を代表する武将の一人。
 智勇共に優れた美丈夫で、三国志の英雄の一人である関羽に憧れていたとも言われており、見事に整った顎髭を持っていた事で知られる。
 若き日は南部家の配下として、南部晴政の叔父である石川高信の配下として陸奥国の西側を中心に活躍する。
 だが、為信は南部に対して深い恨みを抱いており、その主従関係も長くは続かなかった。
 1571年の22歳の時、為信は突如として反旗を翻し、石川高信を奇襲にて討ち取ってしまう。
 それを皮区切りとし、為信は南部家との抗争を開始した。
 現代の時代においては石川高信を討ち取ってからの為信の行動を謀反であるとしている事が多いが、実際は謀反とは言い切れない。
 元より、為信が家督を継承した大浦家は南部家とは同族であるため、家臣という立場よりも同盟者という側面が強い。
 そもそも、南部家という大名が豪族の連合であった側面があり、他の南部諸家とは明確な主従関係がなかったとも言われている。
 そのため、大浦家の当主という立場にあった為信が南部に反旗を翻した事については戦国時代では日常茶飯事であった同族同士の争いの一貫でしかないのである。
 為信の行動を謀反であるとするにはいま一つ、理由が不足しているのだ。
 また、為信という人物は敵対した相手には容赦はないが、味方とした相手には義理堅い事でも知られており、信用のおける人物でもある。
 人としての魅力を兼ね備え、『天運時至り。武将其の器に中らせ給う』と称された為信は紛れもない、奥州が誇る大物の一人であると言えよう。
 因みに浪岡北畠家を滅ぼした1578年当時は大浦為信と名乗っているはずだが、改名する由縁には諸説あるため、此処では統一の意味で津軽為信とする。





 ――――沼田祐光





 関東の沼田の出身と言われる人物で津軽為信の軍師を務めた事で知られている。
 若き日は京都に在り、室町幕府13代将軍、足利義輝の家臣、細川藤孝の配下であった。
 祐光は1560年前後辺りから武者修行の旅に出て日本各地を廻り、奥州に見聞していた時に為信に出会ったと言われている。
 恐らく、若き日より才気溢れる人物であったとされる為信の器に惚れ込み、配下に加わったのだろう。
 配下となった後は持ち前の智謀と各地を廻った時期に得た幾多の経験を以って為信を支え、重鎮としてその力を振るう。
 また、祐光は天文、占いと言った古い分野に関しての知識も多く、細川藤孝に仕え、その薫陶を受けていた事もあり、文化的な教養も持ち合わせている。
 畿内の情勢を見る事にも様々な伝手を持っており、中央の動向にも詳しい。
 その上で若き日から付き従ってくれたと言う点も踏まえると、正に為信には無くてはならない人物であるといえる。
 沼田祐光――――彼の人物もまた、奥州においては一際、目立った人物であった。















「そうですな……大宝寺は上杉の後援があって勢力を築いておりますが、上杉謙信亡き後の内乱にて、後ろ楯を失っておりまする。
 最上義光と争っている今では頼りにはなりますまい。大宝寺については静観しておくのが得策かと」

「ふむ……」

 祐光の意見に為信は暫し、考える。
 越後の上杉家の内乱の影響が此処まで影響を及ぼしている事で周囲の情勢が大きく動きかねない事を察したからだ。
 意外にも思われるかもしれないが、上杉謙信の存在は出羽国だけでなく更に離れた陸奥国の情勢にまで影響を齎すほどであった。
 特に大宝寺家と同盟を考えていた為信からすれば上杉謙信の死によって起きた御館の乱ほど都合の悪いものはない。
 後ろ楯を失った大宝寺家には盟友としての価値が殆どなかったからだ。
 只でさえ、大宝寺家は強大な上杉家の軍事力を背景に最上家と争っていたのにその前提とされる条件の全てが崩れてしまっている。
 最早、最上家以外に目を向ける余裕はないだろう。
 同盟の候補である大宝寺家が当てにならない現状において、津軽家は新たな盟友を欲していた。

「ならば――――戸沢は如何だろうか?」

 大宝寺が無理である事を踏まえ、浪岡北畠を滅ぼした事で安東とも敵対する事が確定した今、為信は戸沢の名を告げる。
 安東と敵対している戸沢ならば互いに利する事が多々ある。
 それに為信は自身でも解らないが、戸沢家の現当主である盛安の事を何処かで気にしていると感じていた。
 説明するとならば表現は出来ない。
 理由は解らないが、戸沢盛安という人物は飛躍する可能性がある――――と思えるのだ。
 自身でも何故、そのように感じたのかは解らなかったが、為信はその感覚を信じて戸沢の名を告げたのである。

「戸沢ですか……間違いなく、話には乗ってくるとは思いますが、彼の家は重臣の戸沢政重殿が亡くなられたばかりです。盟約を結ぶには暫し、時が必要かと。
 なれど……安東を敵とする以上、戸沢以外に選択肢がないのも事実です。機を見て戸沢と盟約を結ぶ事は今後を踏まえれば重要であると言えましょう。
 それに戸沢は南部と深い因縁がありまする。彼の家は南部によって雫石の地を追放され、角館に根拠地を移したという経緯があります。
 そのため、戸沢は南部とも敵対しております。それ故、我らとは敵を同じくしているため、彼の家とは並び立てまする。
 また、戸沢も現状は安東、小野寺、由利十二頭に対処するにあたって盟友を欲しておりまする。此方の要求には必ずや応じましょう。
 しかし……戸沢の現当主は只者でないでしょうな。家督を継承してすぐに領内の治水を行ない、兵馬を鍛えるとは既に先の事を見ておりまする。
 殿も若くして当主になった身だからこそ、解りましょう。戸沢家の現当主、盛安殿は若いが侮れぬと言う事を」

 祐光が盛安の事をどのように見ているかが気になったが、思っていた以上に評価しているらしい。
 盛安について思う事は為信が考えていた事と殆ど全てが一致している。
 独自の情報網を持つ祐光は各地の情報収集にも抜かりがなく、出羽国の情勢も正確に把握している。
 為信が出羽の動向を把握しているのと同じく、祐光も戸沢家の動きから目を離さずにいたのである。
 それ故、祐光は盛安が行なっている事を把握し、先を見通して行動している事を読み取っていた。
 祐光の意見は的を射たものであり、為信が思う事と一致している。
 これならば、導き出した方針に迷う事はない。

「……俺と意見が同じで有り難い。今後は戸沢と手を結ぶ事を前提として南部、安東に備える。祐光、異論はないな?」

「はい、それが上策かと存じます」

 為信は戸沢家と盟約を結び、南部家と安東家に備える方針を定める。
 事実上、大宝寺家を見限る事としたのである。
 この時点で安東という新たな敵を抱えるに到り、同じく安東を敵とする戸沢を見出した事を踏まえれば、為信も先を見通していたと言えよう。
 尚、史実においては為信は盛安とどのくらいの接点があったかまでは記述が少ない。
 明らかになっている事は安東という共通の敵を抱え、手を結ぶには双方にとって都合が良かったという事。
 小田原征伐の際に病に倒れた盛安を為信が見舞っていたという事。
 接点らしい接点の記述は殆ど残っていない。
 だが、歴史上では隠れた真実もあるであろうし、その逆もある。
 何れにせよ、戸沢盛安と津軽為信の2人には同盟を結ぶ事について双方共に大きな意味を持っていた。
 互いが知られざるところで盟約を結んだ事は充分に考えられる事なのであった。















(戸沢盛安……何故、こうも気になるのだろうか)

 浪岡城を落城させ、祐光と今後の方針を話し合った後、為信は1人になったところで思案する。
 盟友として名前を浮かべた戸沢盛安の事を。
 若くして家を切り盛りしているという部分は自分と似ているとも思えるが、本来ならばそれだけであり、同業者であるという認識を持つ程度の事でしかない。
 為信が何故、盛安の事に意識が向くのかは自分自身でも解らない。
 余り記憶にないところで既にその名前を聞き及んでいたのか。
 それとも、何かしらのめぐり合わせみたいなものがあるのか。
 何れにせよ、為信は盛安という人物に興味を抱く。

(家督を継承したばかりではあるが……領内の治水を始めとして政策を行い、また兵馬を鍛え、準備を進めている。これからの動きが楽しみな人物だ)

 話を聞く限りでは、治水の件も軍備の件も全て盛安が自ら発案した事だという。
 特に治水に関しては従来とは違う手法で行なったらしく、為信もその発想は聞くまで思いつかなかった。
 だが、盛安が行なったとされる治水工事は為信にも良く理解出来た。
 河川の合流地点に新たに川の流れを作るという方法。
 領内の統治に熱心な為信からすれば大いに興味が惹かれるものであった。
 若干、13歳の若者に遅れを取るのは悔しいものがあるが、若さ故の閃きがあるからこそ奇抜な発想を思いついたのだろうと思える。
 為信という人物はくだらない感情だけで他者の評価を決めるような人間ではない。
 認めるべき事は認められるだけの懐の深さは持ち合わせている。
 それは敵対していようが、味方であろうが関係ない。
 優れた人物というのは年齢などに関わらずいるものなのだ。
 だからこそ、為信は家督を継承したばかりの盛安の事を評価したのである。

(此方が落ち着き、戸沢にも余裕が出てきたところで盟約の話を出してみるか。戸沢盛安という人物の器はその時に確かめれば良い)

 為信は思案を終え、自らの考えを纏める。
 当面は南部家と安東家を敵とし、津軽家はそれに対抗する。
 また、同じ敵を抱える事になるであろう戸沢家とは同盟を結び、盛安という人物次第では同盟だけでなく、共闘する道を選ぶ。
 為信の周囲の情勢を踏まえれば、戸沢家以外には味方とするべき相手は存在しない。
 それが祐光の意見も考慮した上で導き出した方針だ。
 これが正式に実を結ぶ事になるのはもう暫く後になるだろうが、為信はこの方向性で動く事を結論付ける。
 こうして、為信が人知れず戸沢家と同盟を結ぶ方針を明らかにした事により、後の布石が置かれる事となったのである。































 From FIN



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