夜叉九郎な俺
第57話 落日の名門





 伊達家と相馬家の長年に渡る因縁から勃発した金山、丸森を巡る戦い。
 この戦は亘理元宗を始めとした伊達家の要となる武将を討ち取った相馬家の勝利に終わった。
 だが、相馬家の勝利の裏には助勢の要請を受けた佐竹家の影響によるものが大きい。
 総大将を務める伊達輝宗、別働隊を率いる伊達政宗の親子の軍勢を撃破する決め手は佐竹家が全ての引き鉄を引いているからだ。
 謂わば、介入した佐竹家の存在そのものが南奥州における伊達家と相馬家との力関係を決めたに等しい。
 それもあってか、戦が終わって数ヵ月の後に相馬家は佐竹家の傘下に収まり配下となった。
 実際に主力の大半を本国に残しながらも明らかな力の差を見せ付け、相馬家の宿願を果たさせたのだから当然かもしれない。
 何しろ、対相馬家の総指揮を委ねられ、南奥州への睨みを効かせていた元宗を討ち取られた事で伊達家は大きく戦略上の方針変更を余儀なくされる事になったのだ。
 元宗の存在はそれほどまでに大きく、彼の人物以上に伊達家中で南奥州の事情に詳しい人物は存在しない。
 歴戦の勇将である相馬盛胤を相手に出来ていたのも元宗によるところが大きいのである。
 そのため、伊達家の目が違う方向に向いたのは佐竹家の助勢があったからである事は疑いようがなかった。
 故に相馬家は佐竹家に降る事になったのである。
 また、此度の戦にて初陣を果たした政宗、成実と義宣、甲斐姫の評価も大きく分かれた。
 女性の身でありながら、原田宗政を討ち取った甲斐姫と政宗との一騎討ちを制し、父義重に劣らぬ戦いぶりで陣頭で勇猛さを発揮した義宣。
 それに対して、義宣との一騎討ちに敗れた政宗と義重との一騎討ちに敗れた成実。
 其方については坂東太郎と名高い義重を相手にした成実は高過ぎる義重の武名の事もあってか、それほどの影響を受けなかったが――――。
 伊達家の次代である政宗が佐竹家の次代である義宣に敗れたのは大きい。
 義宣が佐竹家の次期当主という立場だけではなく伊達家の一門衆でもあるからだ。
 伊達本家の跡取りが分家の人間と初陣で戦い、敗北を喫した――――これは政宗の武将個人としての武勇を疑われる事にも繋がる。
 しかも、最終的にはあくまで伊達家と相馬家との戦である事情があったとはいえど、余裕をもって見逃されているのだ。
 命を拾ったとはいえ、政宗の一人の武士としての名は大きく傷付けられたと言える。
 これにより、実態はともかく、伊達家と佐竹家の次代の評判には大きな差が出来た事になり、義宣の伊達家の一門衆である立場も奥州に喧伝された。
 結果的に義宣は名実共に坂東太郎の後継者として、また伊達家の血を継ぐ次代の人物として名を上げる事に成功したのである。
 こうして、伊達家と相馬家の戦いを起点として奥州へとその影響力を伸ばした佐竹家。
 相馬家を傘下に収めた事で足掛かりを得た関東屈指の大勢力が奥州への影響力を強めた事は疑いようがない。
 但し、この背後には僅か3年の間で急速に勢力を拡大した戸沢家の動きが関わっているという事は一部を者達を除き、誰も知りえない。
 義重が奥州への影響力を強めたのも盟友、上杉景勝との連携のためであり、新たな盟友となる戸沢盛安との連携のためなのである。
 しかし、盛安の事があるとはいえ、何れにせよ佐竹家は大きく飛躍の時を迎えている事には変わりはない。
 次代を担う義宣が明確な成果を手に初陣を済ませた事で、先行きが明るいものである事を証明したのだから。





 だが、佐竹家が飛躍している時と同じくして――――彼の家と同じ新羅三郎義光の系譜を受け継ぐ、ある源氏の大名は落日への道を着実に歩みつつあった。
 甲斐の国を中心とし、信濃北部、信濃南部、遠江、駿河、上野を支配下に置くという広大な勢力圏を築き上げた大名。
 嘗ては”甲斐の虎”とも呼ばれた英傑が家を束ね、数多くの伝説とも言うべき恐るべき数々の戦果を築き上げた大名。
 源氏の血を継ぐ者として相応しいだけの武力を持ち、一時期は天下に一番近いとすら言われた事もある大名。
 その大名の名は――――。



















 ――――武田家と言う。



















 ――――1581年9月





 ――――甲斐国、韮崎





「……高天神が落ちて早、半年か」

 甲斐の韮崎の地にて城の普請が大詰めとなっている光景を見ながら、一人の30代半ばと思われる人物が虚空に向かって呟く。
 武田家を預かる身となって間もなく10年が経過しようとしている現在、この人物を取り巻く状況はけっして良いものではない。
 今から6年前に勃発した長篠の戦いでは織田家、徳川家の両家による連合軍に敗北し、これにより四名臣と呼ばれた武将の3名を始めとした歴戦の勇士達を失い。
 3年前から2年前にかけて越後で起こった御館の乱では当初は上杉景虎側で参陣する予定であったが、当初と違い上杉景勝に味方した事で北条家との同盟を無くし。
 今年に至っては東遠江の要所であった高天神城を失った。
 此処数年の間に様々な出来事に遭遇してきたが、特に大きかったのはやはり、高天神城の陥落だろう。
 自らの父親が亡くなった後に徳川家より奪取した高天神城は父が落とす事が出来なかった数少ない城。
 この城こそが自身の武勇を証明するものであり、戦上手である事を示していたとも言える拠点であった。
 だが、周囲に敵を抱え、消耗していく最中に高天神城を徳川家に攻められた事で援軍を送る事は叶わなず、みすみす失ってしまった。
 家中を自らの武勇で従えていた身としてこれは痛恨事であり、味方の窮地に動かなかったとして対外的な信用も失墜した。
 先代である父がなくなって以来、10年にも満たない間に武田家の屋台骨は明らかに揺らぐ形となったのである。
 それに加え、織田家、徳川家の前に劣勢を強いられている現状では先征き不透明な道筋しか見えない。
 唯一、希望があるとするならば八面六臂の活躍を示している自らが最も頼りにする人物が担当している上野国方面と佐竹義重との同盟だけだろうか。
 景勝との同盟も御館の乱が終わった今ならば、機能するかもしれないが……此方は過信出来ないため自然とそうなってしまう。

「幸いなのは上州の展開が相変わらず順調な事だけか。……侭ならぬな」

 韮崎の地に新たな城を築くための普請作業をしている人物の事を自嘲気味に見つめながら呟く。
 最早、挽回する手もほぼ存在せず、現状ではこの城が完成したとしても思い描いていた甲斐国を創り上げる事が出来るかも怪しい。
 長篠の戦いを発端にやる事、成す事の多くが裏目にまわり、直実に追い詰められていく武田家を率いる彼の人物。
 その名を――――武田勝頼と言う。





 ――――武田勝頼





 甲斐の虎の異名を持つ英傑、武田信玄の四男。
 平安時代の武将、新羅三郎義光を祖とする甲斐武田家第20代目当主である。
 また、武田二十四将の一人と数えられる事でも知られている。
 勝頼は信玄と諏訪頼重の娘との間に生まれた人物でその複雑な背景から武田家でも浮いた存在で兄、武田義信の死により四男でありながら後継者となった経緯を持つ。
 そのためか、家中での評判は良いとは言えず、信玄とは全く異なる方針や在り方に反発する者も多かった。
 馬場信房、内藤昌豊、山県昌景といった信玄の代の重臣達とは意見が合っていたと言い切れず。
 かといって諏訪に居た頃の家臣達も重臣達とそりが合わず。
 更には穴山信君を始めとした一門衆とも上手くいかない。
 やる事、成す事の全てに障害しかなく、かといって改革を行おうとすれば信玄の事を引き合いに出されて躓く。
 余りにも偉大であった父、信玄の陰に振り回されていると言っても良いかもしれない。
 ある意味で勝頼は負の遺産の全てを一身に背負う事となってしまった人物であると言える。



















「……我が身では武田を背負う事は所詮、叶わぬものであったのだろうか」

 今や他国である上野国のみにしか活路を見い出せない現状に勝頼は自らの不徳を恥じる。
 同じ源氏の血を継いでいる一つ歳下の義重との大きな違いに不甲斐なさしか浮かんでこない。
 配下の素破や戸隠の者達から集めた情報によれば、勝頼の盟友たる義重は遂に奥州への足がかりを手に入れ、更には新たな盟友を得たという。
 噂では夜叉九郎、鬼九郎と呼ばれる勇将で、出羽国の戸沢家の当主であるとか。
 しかも、勝頼よりも20歳も年齢が若い上、昨年には朝廷から鎮守府将軍の位を与えられていると聞いた。
 甲斐国より遠く離れた奥州での話であるが、信玄も奥州の蘆名家と誼を通じていたため、それを関係ないものとして流す訳にはいかなかった。
 嘗ては敵対していたとはいえ、上杉家も佐竹家も今や武田家の盟友である。
 その盟友の動きに関係してくるものなのだから、勝頼にとっても決して無関係ではない。
 ましてや、景勝とは義兄弟の間柄となったのだから尚更である。

「景勝、義重……何れも立場は変わらぬと言うのに」

 だからこそ、勝頼は苦々しく思う。
 信玄を父とする自分に対し、上杉謙信を義父に持つ景勝が内乱の果てに家を掌握して家の体制を新しい形へと移行させる事に成功している事を。
 義重が悲願を目前として没した父を超え、今や軍神の後継者という立場を名実共に築き上げている事を。
 その両方は勝頼が目指し、思い描いていたものだからだ。
 家の体制を新しい形へ移行させる事と甲斐の虎の後継者としての立場を築き上げる事を目指した勝頼が出来なかった事を景勝と義重は成し遂げている。
 偉大な父親から家督を継承したという立場は全く同じであるにも関わらずだ。
 過程こそ違うが、両名共に勝頼が理想としたものを創り上げているだけに悔しさが募る。

「……今やこの勝頼だけが置いていかれているのみ。何処が彼の者達と違うのであろうな」

 甲越佐の同盟を結ぶ者で唯一人、自分だけが落日を迎えようとしている。
 特に同じ祖を持つ義重との差には呆れるしかない。
 共に自らの武勇を自負し、戦では自ら太刀を取って戦う猛将であり年齢もほぼ変わらない。
 源氏の大将という意味では共通点が多く、率いる家も由緒正しい点で同じである。
 にも関わらず、今やその差は覆しようもないほどのものとなっている事を踏まえると何が問題であったのか、とすら思えてくる。
 自身を取り巻く環境が問題なのか、義重と違って父を超えられていない事が問題なのか。
 それは勝頼自身には解らない。
 出来る事は全て行ってきたつもりだし、持てる力は全て出し切ってきた。
 だが、その精力的な活動は何一つとして良い方に働く事はなく、全てが裏目に出る。
 余りにも重なる不運としか言えない数多くの出来事は滅亡へと向かおうとしている武田家の時流がさせるものだとすら思えてくるが……。
 勝頼はそれを座して待つような人間ではない。
 今、こうして韮崎の地で普請を行っているのも以前より考えていた構想を実現させるためのものだ。
 追い詰められている現状で必要な事は時を稼ぎ、活路を見い出す事。
 それに必要なものの一つが堅城であり、現在普請中の新府城がそれに当たる。
 織田家、徳川家といった迫り来る敵を相手にするには堅城に籠り戦を長引かせる事が不可欠だからだ。
 実際に攻め寄せられた場合でも戦が長引きさえすれば、援軍として駆け付ける越後、上州の軍勢があれば戦にはなる。
 例え、敵よりも寡兵であったとしても攻城側の軍勢は後詰の軍を恐れるものであり、寡兵を活かして山戦を仕懸ければ厭戦気分を蔓延させる事も不可能ではない。
 そうして敵の士気が崩れたところで援軍と共に前後から突けば、如何な大軍であっても崩す事は出来る。
 これが新府城の普請奉行を任された者からの進言であり、勝頼が先を見い出した方針だ。
 また、その者は政治と商業が不可分であると言い、生半可な詰城を築く事は下策であると言う。
 新府城が完成した暁には国府と城下の移転も行い、家臣団から商人まで集住させる事が新しい国造りには必要であると言っていた。
 こういった画期的とも言える考えは従来の武田家には存在せず、信玄すらも思い描いてはいなかったもの。
 人は城であり、人は石垣であるという信玄の理念とは違うものであるからだ。
 しかし、信玄の理念が時代遅れのものとなり、新たな世代へと移行している今はこの進言は的を射ていたと言える。
 更に続けて、その者は新府城が危機に陥った場合には武田家の本拠を甲斐国から移すべきであるとしていた。
 彼の人物曰く、西より甲斐国へ攻め入る場合に通る事になる信濃国は長い谷沿いに街道が開けており、これを守る事は困難であるという事。
 敵の侵入を許し、各要所を落とされれば如何なる堅城であっても朽ち果てるしかない。
 そうなれば、守りきる事は不可能である。
 故に彼の人物はその際に上州の吾妻の地にある岩櫃城へと本拠地を移すという意見も提案していた。
 これは甲斐国に縛り付けられて生きてきた武田家の既成の価値観の全てを覆すもの。
 だが、勝頼はこの意見に深く共感を覚える。
 思えば、甲斐源氏とも呼ばれる武田家は元をたどれば常陸国の出であり、甲斐国に固執する必要はないからだ。
 例え、国を移したとしても武田家そのものが無くなる訳ではない。
 多くの家臣達は反対するであろうが、勝頼はこの全く新しい視点での意見を具申してくれた者に自らの命運を託すと決めた。
 今、この場で新府城の普請を任せているのもその意志の表れである。

「御屋形様」

 勝頼が物思いに耽っている最中、普請の指揮を執っていた家臣が声をかける。
 恐らく、一通りの指示が終わって作業が一段落したのだろう。
 心中を察するかのように頭を下げ、勝頼の近くで待機する。
 この人物こそが良くも悪くも信玄時代からの風習に囚われがちであった価値観を崩す意見の全てを考案した者。
 年齢は30代半ばといったところであり、勝頼とそれほど歳頃は変わらないように思える。
 だが、新しい発想とも言える見解を示した事といい、甲斐国に固執する必要はないと言った事といい、明らかに常人では考えが及ばないであろう視点を兼ね備えていた。

「……安房」

 勝頼は近くで自らを呼んだ家臣の名を口にする。
 安房――――と呼ばれたこの家臣こそが勝頼が命運を預けるに相応しいと思った人物。
 年齢も近いためか、腹を割って話せる相手であり、この者には幾度となく助けられてきた。
 そして、苦境に陥った今も勝頼に新たな道を示して唯一無二とも言うべき活路を見い出させた彼の人物――――。



















 その名を――――真田昌幸と言った。


































 From FIN



 前へ  次へ  戻る