夜叉九郎な俺
第2話 状況整理





 元服の儀と家督継承の儀が終わった翌日。
 慌しく過ぎていった覚醒初日とは違い、ゆっくりと落ち着ける。
 戸沢家の当主となったからには今後を如何ようにするべきかを考えなくてはならない。
 何しろ、2度目となる人生なのだ。
 自身の出発点であった家督継承の時点では無理だった事も今ならば考えられる。
 とりあえず、現在の置かれている状況と周囲の状況。<>br  また、家督継承の時点での主な出来事を整理してみようと思う。















 まずは角館城を本拠とする戸沢家の勢力。
 小大名と呼ばれるほどでしかないが、出羽国内では有力な大名の一つである。
 出羽国の北には強大な勢力を持つ安東家、南には1578年現在において全盛期を誇る小野寺家が存在している。
 戸沢家は出羽国では中心部を勢力圏とし、北と南でそれぞれに出羽国の勢力に囲まれていた。
 だが、本拠地である角館城は天然の要害に守られていて堅固であり、守りやすいために安東も小野寺も侵攻していない。
 そういった事情もあり、長らくこの地に拠を置いた戸沢家の力は充分に蓄えられている。
 また、意外に知られていない事だが、戸沢家の領内は多量の金が産出し豊かであった。
 石高は盛安が当主を務めていた全盛期で4万石ほどであったと言われているが、実際に合戦で動員されていた軍勢は石高の実数よりも遥かに多い。
 何しろ、盛安は史実において3000人以上もの軍勢を率いていた事もあったのだから。
 1万石で300人という計算で見積もったとしても、石高の2倍以上もの動員力を有している事になる。
 そのため、戸沢家は石高以上の勢力基盤を持っていたといえる。
 しかし、周囲の状況も踏まえれば楽観視する事は出来ない。
 石高以上の力を持っていたという点では北の安東家も同じであるため、決して恵まれた状況にあるとは言い難いからだ。
 安東家も石高は7万石前後の大名だが林業や貿易を中心に栄えており、実数以上の動員力を有していた。
 それに南の小野寺家も3万石前後の大名で力は戸沢家と大きくは変わらない。
 戸沢家は北の安東家と南の小野寺家に囲まれている形なのである。
 また、角館の南西にあたる日本海側の由利地方では由利十二頭と呼ばれる豪族達が割拠しており、混乱を極めている。
 戸沢家は配下の前田利信がその中の赤尾津氏、羽川氏と交戦しており、由利地方にも少なからず影響を持つ。
 最後に戸沢家の西に勢力を持つ大宝寺家だが、同じ出羽国内の大名でありながら安東家、小野寺家に比べると戸沢家との接点は非常に少ない。
 大宝寺家は小野寺家よりも更に南に勢力を持つ、最上家との関係に悩まされていたからだ。
 出羽国は大きく分けると北と南に分かれるが、出羽国の南の殆どを掌握している最上家が最大の勢力であると言っても良い。
 特に現在の最上家当主、最上義光は奥羽の驍将または羽州の狐とまで称される人物で出羽国における第一人物である。
 幸いにして最上義光は戸沢家に対しては矛先を向けておらず、大宝寺家や伊達家を相手にして動いている。
 現状の段階では脅威と見るには早いだろう。
 寧ろ、状況が整わない限り、最上家と事を構える必要性は全くない。
 最上義光の恐ろしさは史実が証明しているのだから。
 こう見ると小大名でしかないとはいえ、戸沢家は意外と周囲に対して影響力がある。
 しかも、長らく力を蓄えてきただけあり、盛安が家督を継承した時点では既に勢力を拡大するための基盤が出来上がっていた。
 これならば、史実において戸沢家が盛安の代になって急速に勢力を広げたのも理解出来る。
 今まで積極的に動かずにいたが故に比較的安定した戦力を動員する事が出来たのだから。
 積極的な軍事行動で奥州に夜叉九郎の名を轟かせた戸沢盛安。
 彼の背景の多くは機が熟すのを待ち続けた家が持つ利点があってのものだったのである。















 次に周囲の状況についての簡単な概要。
 まずは最上義光が率いる最上家。
 この頃の最上家は伊達家と争っており、更には最上八楯と呼ばれる国人連合との戦いが終わったばかりであった。
 最上八楯は義光の父、最上義守の忠臣である天童頼貞を中心とした勢力で何れも最上家の分族で構成されている。
 義光は1577年に最上八楯と戦ったが、天童頼貞、延沢満延をはじめとした八楯が誇る武将達の率いる軍勢に敗北し、和議を結んだ。
 また、翌年の1578年には伊達輝宗との間に柏木山の戦いが勃発しており、内に外にと忙しい有様であった。
 最上家は出羽国の中でも最大の実力者ではあるが、北に目を向ける余裕は少ないといえる。
 次に史実における盛安の最大の敵であり、強敵であった安東愛季が率いる安東家。
 盛安が家督を継承した頃は稀に南部、津軽と争う事があったくらいで基本的には目立った動きは見せていない。
 但し、それはあくまで奥州の中だけでの話である。
 安東愛季は日本海における交易経路を確保しており、それを利用した情報収集などに抜かりがなかった。
 事実、この頃の愛季は織田信長と誼を通じ、従五位の官位に就任するなど中央とも関わりを持っている。
 そういった意味では非常に広い視野を以って政を行なっていたといえよう。
 また、安東家は蝦夷の蠣崎家を配下とし、蝦夷地にも強い影響力を持っている。
 出羽の北部と蝦夷を従える安東愛季は盛安にとって最上義光に並んで脅威となる存在だといえる。
 尤も、愛季の方も領内に浅利勝頼という不穏分子を抱えているため、迂闊には動けない状況にあり、現状は南に目を向ける余裕は少なかった。
 残る小野寺、大宝寺は戸沢と力関係はそこまで変わらないし、由利十二頭はあくまで豪族でしかない。
 もし、戸沢家に対抗するなら死力を尽くすしかないのである。
 現状に関していえば最上義光、安東愛季の二大巨頭が積極的に動けない現状は戸沢盛安にとっては余りにも恵まれた状況だ。
 少なくとも数年程度の時間であれば確実に空白の時間も導き出せる。
 方針を決めて、その準備を進めるなら今しかないのである。















 盛安が家督を継承した1578年(天正6年)の時点での主な出来事についてだが……1578年は既に戦国時代も後半といった年代である。
 実のところ、盛安が家督を継承したこの年は意外に歴史上でも重要な人物が多数亡くなっていた。
 まずは越後の大名、上杉謙信の死亡。
 これは歴史上でも一つのターニングポイントであり、上杉家の衰退と織田家の飛躍に直結している。
 上杉謙信は脳卒中で死亡する際、後継者を明確にしていなかった。
 謙信には上杉景勝と上杉景虎の2人の後継者がいたが、そのどちらが後を継ぐのかを決めていなかったのである。
 この時、景勝の腹心である直江兼続(当時は樋口の姓を名乗っている)の活躍により、景勝は景虎を出し抜く事に成功している。
 だが、景虎側も出し抜いた形で当主に就任した景勝を認めず、反乱を起こす。
 これが後に御館の乱と呼ばれる上杉家の内乱である。
 盛安が家督を継いだ当時、上杉家は御館の乱の真っ最中であり、越後国内は景勝派と景虎派の争いが繰り広げられていた。
 御館の乱は越後国での内乱であるため、傍目からすれば出羽国の戸沢家からすれば関係ないようにも思える。
 だが、越後国は日本海側で出羽国と国境を接しており、上杉家は史実でもしばしば出羽国に侵入している。
 そのため、上杉家の動きというのは出羽国の大名や諸勢力にとっては重要なものであった。
 また、上杉家以外でも時を同じくして重要な人物が亡くなっている。
 甲斐、信濃に影響力を持つ大名である武田家の家臣で逃げ弾正の異名を持つ人物である高坂昌信だ。
 彼の人物もまた、歴史上で名を残した人物でその活躍は甲陽軍鑑を中心に多くの事が伝わっている。
 高坂昌信は若い頃から武田信玄に仕え、その軍略を直々に伝えられた人物の一人。
 1575年における長篠の戦いにおいて馬場信房、山県昌景、内藤昌豊らを中心とした多くの武将達が死亡する中で唯一、信濃に残っていたために悲劇を免れていた。
 織田家との戦いによって力を一気に失った武田家にとっては最後の柱石とも呼べる大物であった。
 だが、昌信も上杉家で御館の乱が勃発した暫くの後に亡くなっている。
 昌信は武田家の内外において重要な地位を占めていた人物であり、自らが没する際に遺言として上杉家、北条家と手を結ぶように言伝を遺していた。
 これは織田信長が台頭し、何れは武田家にも侵攻する事を見越しての事で昌信は武田、上杉、北条が結束しなくては対抗出来ない事を知っていたためである。
 更に昌信は『君側の奸にご注意めされよ』との言葉も遺している。
 が、死を以って諌めようとしたその甲斐はなく、昌信の死後僅か4年の後に武田家は滅亡する事となる。
 上杉家の動向と違い、武田家の動向は戸沢家に直接、関係するものではない。
 だが、武田家の動向は上杉家にとっては重要な事であり、出羽国にとっては上杉家の動向は重要であった。
 高坂昌信の死も間接的ではあるが、影響のあった出来事の一つであるともいえる。
 また、それ以外にも九州では島津家と大友家との間で耳川の戦いが中国地方では尼子家と毛利家の上月城の戦いが勃発しており、各地で歴史が動いている。
 盛安が家督を継承した年は時代が大きく動いていた頃だったのである。















「さて、如何するか……」

 自分の持つ記憶を反芻しながら俺は呟く。
 俺が家督を継承したこの年は各地で大きな動きが多数見られている。
 しかし、現在の俺の力の及ぶ範囲では何も出来ない。
 上杉の事も武田の事も何かしらの影響がある事が解っているにも関わらずだ。
 例え、2度目の人生を送る事になったとはいえど都合良く全ての事態が動く事はない。
 あくまで動かす事が出来るのは自分の手が届くところの限界点までだ。
 だから、俺は現状では国を整える事に注力し、周囲の国の動向に対しては静観する事を選ぶ。
 この1578年で起こる事において、戸沢家にとって重要であると断言出来る彼の人物が死亡するその時までは――――。































 From FIN



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