夜叉九郎な俺
第74話 分岐する道
――――1582年3月1日
――――高遠城
「一戦も交えずに降伏せよとは片腹痛い。信忠殿の行為には感謝するが、兄者のために戦わずして何が武士だ」
織田家からの降伏の使者を送り返し、孤立した高遠城で戦の準備を進めているのは仁科盛信。
勝頼の実弟であり、家中では傾奇者として知られる武辺者であり、武勇の士として名高い人物である。
しかし、如何に盛信が優れた将であろうとも完全に孤立した状態にある高遠城の戦局を挽回する事は不可能であろう。
盛信自身も勝ち目が無い事くらいはとうに理解しており、先日、勝頼が正式に信濃を放棄する事を決定した事についてもそれを恨む事は無い。
「仰せの通りにございまする。この小山田昌成も一族を上げ、最後まで御付き合いさせて頂く所存」
盛信の確固たる覚悟に同意する小山田昌成。
昌成は同じ性を持つ小山田信茂とは数代前に家を分けた別系統の家柄で信茂とは然程、近い姻戚関係では無い人物。
攻城戦、籠城戦を得手とする事で知られる武将で既に隠居の身にあったのだが、武田家の窮地と知って復帰し、一族を上げて高遠城へと入っていた。
「……すまぬな。敵は雲霞の如き大軍であるにも関わらず、御主らを付き合わせる事になった」
一族郎党を引き連れ、態々参陣した昌成に盛信は謝罪する。
此度の戦は万が一にも運を開く戦いと成り得る事はない。
この先にあるのは死以外には何も無いだろう。
盛信は勝頼のために逝く事は苦にも思わないが、他の者達が同じとは限らない。
だが、昌成からの返答は意外なものであった。
「構いませぬ。我ら二心無くして此処に集った者。潔く戦って死する事は武士の本懐であり、生まれた甲斐があると言うものでござる」
「……そうか」
昌成が全く同じ覚悟である事を汲み取った盛信はこれ以上は何も言わない。
既に死する身でしかない事を受け入れている昌成と郎党達の表情は晴れやかだ。
盛信と共に最後まで戦える事を嬉しく思っている。
織田家の大攻勢を前に多くの者が武田家を裏切り、見限っていったが昌成はそういった者達とは考えが全く違う。
小山田家の者として最後まで戦うつもりである事には何の躊躇いもない。
盛信は頼もしい同志達の返答に満足しつつ、最後の一時を楽しもうと心に誓う。
傾奇者と呼ばれる自分に相応しい最後の時を過ごし、来るべき織田信忠との決戦に備える。
それが――――盛信に出来る唯一の事であった。
「……松よ、此処まで付き合わせてしまってすまぬ」
昌成らと共に戦い抜く事を近って最後の宴を催した盛信は密かに場を抜け出し、実妹の松姫を呼んだ。
松姫は盛信と同腹の兄妹であり、上杉景勝に嫁いだ菊姫の実姉である。
「御気になさいますな、兄上。私は望んで此処に居るのです。死する事になろうとも構いませぬ」
「……そうか」
既に松姫も覚悟を決めている。
武田家の女として、盛信と共にこの高遠城で散ろうと言うのだ。
それは歳下の義姉である桂も同じであるため、盛信からすれば想定の範囲内だ。
しかし――――此処で盛信が逝き、甲斐の地で勝頼までも逝く事になったとすれば誰が武田家の菩提を弔うのか。
織田信長は最後まで戦い抜いた者には寛大であると言うが、それも何処まで信用出来るかは解らないだけにせめて松姫だけは逃がさねばと盛信は思う。
「御主の覚悟は良く解った。だが、松を此処で死なす訳にはいかぬ。……信忠殿の下へ行け」
「兄上!?」
「俺が知らぬと思うてか。御主が日夜、信忠殿の事を想って涙しているのを」
「それは……」
盛信の言葉に松姫は言葉に詰まる。
松姫は織田家との関係が白紙になり、信忠との婚約が解消された今も彼の人物を想っている。
本来ならば他家に嫁ぐなりするところであるが、尼になる道を選んだ。
あくまで信忠以外の人物には嫁ぐつもりが無いという意思表示である。
同腹の妹であり、共に過ごした時が長い盛信にとっては松姫の心の中は見て取れた。
それ故にその望みを叶える最後の機会とも言える今、この時を感謝している。
敵総大将が信忠であるのならば、松姫を送り届けても問題はない。
「……俺が兄として御主にしてやれる最後の事だ。親父殿の都合に振り回されたが故に白紙にされた事……せめて、それだけでも叶えるが良い」
「はい、兄上……感謝致します」
兄の最後となるであろう気遣いに松姫は涙しつつ、頷く。
互いに結ばれる日を夢見ながらも両家の都合で引き裂かれた信忠との婚姻は松姫自身が一番望んでいた事。
決して叶わない事だろうと思っていたのに盛信は最後の一時を自分のために使おうとしてくれている。
それが唯々、申し訳なくて、悲しくて。
でも、信忠を想う気持ちは如何しても止める事が出来なかった。
盛信もそれを解っているのだろう。
これ以上は一言も発する事はなかったのである。
松姫はこうして、盛信の手によって織田信忠の下へ送り届けられる。
盛信はこの時、捕らえられる事を覚悟した上で松姫を自らが共をして、松姫を信忠へと預けた。
信忠もいきなり訪れた盛信と松姫の姿に驚いたが、やがて高遠城へ総攻撃かける際に松姫をも巻き添えにしてしまう可能性があった事を知り、借りとして盛信を見逃す。
最後に義兄弟として杯を交わし、最後は正々堂々と戦う事を約束して。
互いに武士として、一人の将として、一度きりの邂逅となった盛信と信忠の会話は誰として知る者は居ない。
勝頼が真田昌幸と交わした会話のように本来ならば在り得なかったであろう邂逅――――。
仁科盛信と織田信忠の生涯で唯一となる出会いは意外な結末を迎える事になる。
この結末には『愛』の一字の兜飾りを持つ人物と鍾馗と呼ばれる人物が大きく関わったという事らしいが――――それは定かではない。
唯、両名の率いる手勢が援軍として密かに信濃へと侵入していたという噂が残るのみだ。
何れにせよ、高遠城陥落は多くの者が想定していた事態とは違った結末となったのである。
――――3月3日
――――新府城
「馬鹿なっ!? 高遠が陥落しただと!」
高遠城が陥落したとの報告を受けた勝頼は信じられないと言った表情で激昂する。
話によれば昨日、3月2日に織田家の総攻撃があり、高遠城は半日程の時間で陥落したという。
始めから勝機もなく、武運を掴む事も出来ないと悟っていた盛信は籠城戦では無く、出撃策を取って自らが太刀を振るって奮戦したとの事らしい。
盛信だけでは無く、付き従っていた小山田昌成らを始めとした郎党達も共をし、盛信と共に戦った。
最後の戦であるだけに華々しく散ろうと思ったのだろうか。
まるで鬼神の如く戦ったという盛信は武田家の一門衆としての意地を存分に示したのである。
「そうか……五郎の亡骸は見つかってはおらぬのか」
届けられた報の中で意外にも盛信の亡骸は最後まで見つからなかったと言う事に勝頼は一縷の望みがあると安堵する。
激戦であったにも関わらず、大将首を取った者が居ないと言う事は僅かではあるが盛信が生きている可能性が存在するのだ。
とは言え、その可能性は万に一つあれば良い方であるが――――勝頼にとってはそれだけでも充分だった。
「しかし……僅か半日しか持たぬとは」
だが、高遠城が半日しか持ち堪えられなかった事だけは予想外であった。
孤立していたとはいえ、彼の城は要害であり、3000もの精鋭が居たのである。
しかも、盛信を始めとし、歴戦の将である昌成らも居た高遠城は事実上の信濃で最も堅固な城だ。
それを半日で落としたとなれば敵は軍勢の数だけではなく、優れた将が率いている事になる。
敵総大将である信忠の器量を垣間見た勝頼は織田家の圧倒的な強さが信長によるものだけでは無い事を痛感する。
「御屋形様……」
そんな勝頼を傍で見守っていた桂は思わず涙を流す。
気丈に振舞っては居るが、勝頼の憔悴ぶりは明らかである。
「……桂か。五郎の亡骸が見つからなかった事だけは救いではあるが……最早、甲斐で抵抗する術は残ってはいない。戦いたくとも戦えぬ」
桂の姿を認め、絞り出すように口にする勝頼。
高遠城が陥落し、上原城までも既に放棄している今、織田勢の次の目標はこの新府城しかない。
しかし、上原城に居た時には15000程であった軍勢は逃亡者が続出し、今では1000足らずが残されるのみ。
それに加え、高遠城が半日で陥落した今、時間稼ぎをしている合間に突貫で防備を固めると言う手段も水泡に帰した。
上州へ退く前に甲斐源氏である武田家の当主として、一戦だけでも甲斐で戦おうと考えていたが、余りにも早い織田家の進軍に成す術も無い。
「一戦も交えずに御捨てするしか無いのですか……!」
「……最早、仕方の無い事だ」
完全に諦め切った様子の勝頼に桂は唖然とする。
だが、勝頼はあくまで甲斐で戦う事を諦めただけであり、その眼はまだ死んではいない。
「安房の計策通り、上州へと退く」
暫しの間逡巡した勝頼は自らの意思が定まったのか、上州へと退く事を口にする。
「ですが……上州への道のりは巌しゅうございます。女子供も居る事を踏まえれば一度、岩殿城へ退いた後に何処かへ落ち延びた方が良いので無いでしょうか?」
しかし、桂は女子供を含めて1000人は居るであろう人々を連れて岩櫃城まで行くのは困難なのではないかと思う。
一度、甲斐国内の岩殿城へと行き、相州方面へと落ち延びる方が道中は余程、楽なはずである。
何しろ、岩殿城までの道のりは道程にして2日程しか掛からないのだから。
「確かに桂の申す通り、女子供を率いて難路を踏破するのは困難であろうが……安房ならば道中にも手を打っているやもしれぬ」
だが、勝頼はそれでも上州へと退くべきであると言う。
真田昌幸ならば道中も含め、何かしらの手を打っているに相違ない。
少人数で退いた場合に土民や徳川家の忍に襲われる可能性も考慮している事だろう。
本来ならば落ち延びやすい岩殿を選ぶべきだが、昌幸を信じると決めた勝頼はあくまで岩櫃を選ぶ事を決断している。
「……解りました。御屋形様がそのように御考えであるのならば、何処までも御共させて頂きます」
「桂……!」
ならば、桂に反論する理由はない。
岩櫃と決めたのならば、それに従うのみである。
勝頼の往く所が桂の往く所なのだから。
昌幸を信じると決めたのであれば桂も昌幸を信じるだけである。
道は困難を極めるであろうが、上州まで落ち延びる事が出来れば甲斐源氏としての武田家が消えようとも武田家そのものが滅ぶ事はない。
常陸を根拠地とする新羅三郎の系譜に連なる源氏に戻るだけだ。
「……例え、最後の一人となったとしても私が御屋形様を御守り致します」
上州への道中で如何なる事があろうとも、付き従う者が例え一人になったとしても――――桂は最後のその時まで勝頼と共に居る事を誓う。
勝頼と共に在る事が出来るのであれば如何なる困難だって越えてみせる。
桂は躊躇する事なく勝頼の腕の中へと飛び込む。
勝頼も戸惑う事なく桂を抱き止め、決して離さぬように強く、強く抱き締める。
その強く抱き締めた裏には勝頼の言葉に出来ない想いが込められていた。
桂はそんな勝頼の胸に顔を埋め、泣き腫らす。
唯々、勝頼の事を守ってあげたい――――そんな想いを抱えながら。
こうして、勝頼は桂を伴って上州へと落ち延びる事を決めた旨を家中の者達に伝える。
小山田信茂、山県昌満を始めとした甲斐の地に拘りを持つ者達は最後まで反対していたが、昌幸を信じると決めた勝頼の意思は固く、如何なる進言にも揺らがない。
此処まで勝頼が自らの意見以外は認めぬと言った様子なのは初めての事であった。
だが、これに反論せずに従う者も居た。
一門衆の一人、武田信豊である。
以前より、昌幸の計策を聞いていた信豊は小諸にて上田、岩櫃、国峰、箕輪と連携する準備を既に完了させていた。
勝頼が此処にきて上州へと落ち延びる事を決断した事は当初の予定通りであり、いよいよ策を実行するその時が来たのである。
そのため、信豊は勝頼に本拠地に戻り備えると言う旨を伝え、新府城を後にする。
武田逍遥軒が行方をくらました今、一門衆の筆頭と言うべき信豊の判断は軍議の結論を明確に表すものでもあった。
結局、後に残された者達も本拠地に戻って備える者と勝頼に従って上州へと共をする者に分かれる。
岩櫃へと退く事が決まったにも関わらず、分裂した家臣団を見て勝頼は言葉もない。
如何に衰退したとはいえ、己の求心力が此処まで落ち込んでいるとは思ってもみなかった。
だが、勝頼の共をすると決断した者達は土屋昌恒らを始めとした直臣達のみ。
裏を返せば勝頼を裏切るような者もこの場には残されていないと言う事である。
数は少なくなってしまったが、付き従ってくれる者達の顔ぶれを見た勝頼はそう思い直す。
何としても上州へと辿り着き、昌幸と共に生き延びるために戦う――――。
勝頼は自らに言い聞かせ、新府城を後にするのであった。
だが――――この時の勝頼は知る由も無い。
密かに甲斐に侵入した何者かが岩櫃へ至る道中にいち早く刺客を派遣している事を。
武田家に素破が居り、真田家に戸隠が居るように同じく優れた忍を抱え、暗躍する事に関しては全く引けを取らない大名の牙が既に食い込んでいる事を。
そして、勝頼に『信玄の眼』と言われた昌幸が居るように彼の大名にも『剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器』と呼ばれた知恵者が居る事を。
駿河の戦線を完全に崩壊させ、北条家を反武田家の立場へと誘導したのも全ては彼の人物が裏で手を引いていたからである。
織田家にとっては忠実な同盟者であり、武田家からすれば三方ヶ原の戦い、長篠の戦いより続く因縁の宿敵――――。
「勝頼め……上州へ落ち延びようとするとは面倒な。……弥八郎よ、既に手は打っておろうな?」
「はっ……」
その名を――――徳川家康と言った。
From FIN
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