夜叉九郎な俺
第32話 毘の旗に集いし者達





 ――――1580年7月





 敦賀の町で果心居士に成田甲斐の話を聞き、その情報から佐竹家に身を寄せている事を確信した俺。
 此処で以外に思うのが甲斐姫が佐竹家に身を寄せる事を成田氏長が認めている事である。
 だが、この事については凡庸と思われがちでありながら、果断な人物であったとも言われている氏長ならば不自然な事とも言い切れない。
 氏長は小田原征伐の際にも居城を城代に任せてまで、北条家に従ったほどの気概を持つ人物なのだから。
 恐らく、許可を出したのも氏長の果断である気質の表れか、それとも由良家に送り返した甲斐姫の実母の事の負い目があっての事か。
 何れにせよ、氏長の決断により、甲斐姫が史実とは違って佐竹家の下に居るのならば現状の段階で上杉家と同盟を結んでいる戸沢家とは接点を持つ事は難しくはない。
 果心居士は「既に縁はある。必ずや再会する事は叶う故、盛安様は思うままに動かれるが宜しかろう」と言い残していたが、的を射た言葉である事は間違いなかった。
 元より、機会があれば佐竹家とは盟約を結ぼうと考えていたし、伊達家を牽制するには如何しても佐竹家の力が必要だ。
 佐竹家は70万石以上もの広大な領地を持ち、関東では北条家に次ぐ強大な大名。
 鉱山や多くの耕作地を抱える常陸国を統一しているだけではなく、下野国や下総国の半ばを領土とし、更には磐城国や岩代国にも勢力を及ぼす程の勢力を持つ。
 関東の東側から奥州の南側に至るまでの影響力を持つ佐竹家は紛れもなく、東日本でも上位に位置する大名である。
 それを踏まえれば、奥州の南側の大名を抑えるにはこれほど頼りになる大名も存在しないだろう。
 そのため、遅かれ早かれ佐竹家には上杉家の伝手を借りて同盟を結ぶ腹積もりだったために甲斐姫の事はその時にでも考えれば良い。
 少なくとも果心居士に俺に会うようにと頼んでいたという事は向こうも意識しているという事なのだから。
 思わぬ話に俺も思わず動転したが、今後の方針には全く影響がない事を再確認した今、その事を懸念する事はない。
 当初の予定通りに動いていくだけだ。
 後は敦賀の町で出港する前に受け取った上杉家からの招待に応じ、春日山へと立ち寄り出羽国へと帰還するだけ。
 これが現状の段階で出羽国の外で行う最後の行動となるだろう。
 俺は不在の間の所領の事を考えつつ、津軽為信と並ぶもう一人の盟友である上杉景勝の居る越後国へと思いを馳せるのであった。
















 ――――1580年7月末





 敦賀、輪島、直江津と暫くの船旅の後、俺達一行は上杉景勝の居城である春日山城を訪れている。
 年が明けてより多くを畿内で活動していた俺だが、上杉家は独自の情報網である軒猿によって俺の動向を把握し、敦賀にて是非とも面会したいとの書状を渡してきた。
 俺がこうして春日山へと出向いたのもこの書状があっての事である。
 早速、出迎えてきたのは上杉景勝の無二の親友にして、家老を務める直江兼続。
 実は直江の名跡を継ぐのは1581年の事なのだが――――混乱を避けるためにも直江の姓で統一する。
 出迎えてきた兼続の紹介に俺を除く面々は全員が驚いたが、無理もない事だろう。
 何しろ、兼続は重政と同い年であり、年齢としては漸く20歳を過ぎたくらいでしかないのだ。
 この頃はまだ執政として、全てを取り仕切る立場ではないが、それでも主君との関係から大事を任されており、立場としては事実上の筆頭家老に近い。
 そのため、此度の俺の招待に関しても兼続が手配し、畿内での動向を探らせていたのだという。
 また、軒猿によって俺の動向を探っていた兼続は俺が信長に会った事も正式に鎮守府将軍を拝命した事も全て把握していた。
 それについては特に咎めるような事もなく、信長という人物が如何なる英傑であったのかを尋ねてきただけである。
 俺は兼続に「乱世を終わらせる力を持つ天下随一の英傑である」と伝えたが……
 兼続は俺の言葉に偽りがない事を認めると「そのような方に敵視されているとは武門の誉れでござるな」と、返してきた。
 これ以上、深くは尋ねてくる事はなかったが、あっさりと信長の事を認めたのは流石と言うべきだろうか。
 信長を認めた上で敵対している者として、誇りを持つその在り方は上杉謙信の志を継承した者だという事を実感させてくれる。
 史実でも関ヶ原の戦いの折に徳川家康を挑発した本人であるだけに天下人である信長に臆する事が全くないのは見事と言うしかない。
 如何も上杉家の人間は誰もがそのような人間であるようだ。
 謁見の間に案内され、その場にずらっと居並ぶ家臣団の姿を見ると尚更、そのように思う。
 この場に現れた俺の姿を見ても、誰もが歓迎するかのような視線を向けてきたのだから。





 景勝が来るまでもう暫く時間があるという事で、場についた俺は供をしている新たに畿内で加わった者を含めた家臣達を紹介する。
 矢島満安、白岩盛直、的場昌長、鈴木重朝、奥重政、服部康成。
 中でも満安と昌長の名は上杉家でも良く知られているらしく、その名を告げた時には響めきがはしる。
 武辺者を尊び、家中でも優れた武勇で知られる人物の多い上杉家では悪竜の異名を持つ満安と小雲雀の異名を持つ昌長の名は聞き及んでいた者も多いようだ。
 何やら、一部の人物からは手合わせを望む声があがっている。
 とりあえず、その事は後にして貰えるか、と言う事でやんわりと断りながら俺は兼続に居並ぶ上杉家の家臣達の紹介を頼む。
 景勝との謁見の後は無礼講になると思われるだけに今の段階で名を聞いておかなくてはならない。

「解りました。では……方々、順番に盛安様に御名乗り下さい」

 俺の言葉に頷き、家臣団を促す兼続。
 それに従って次々と名乗りをあげてくるのだが――――これが何れも半端な人物ではない。
 誰もが歴史の何処かに名を残している人物達だ。
 この場で紹介された狩野秀治、斎藤朝信、小島貞興、河田長親、千坂景親、水原親憲、安田能元、須田満親、色部長実といった武将達は勿論の事。
 中でも今後の戦略上でも深く関わってくる事になる本庄繁長、新発田重家の両名もそれぞれに歴史上でも名前を見る人物であり、遠い先の時代でも名高い。
 特に重家には御館の乱の際の論功行賞の際に俺が口添えしていた事が伝わっていたらしく、紹介された途端に平伏されてしまった。
 「盛安様の御恩は忘れませぬ。最上、蘆名と事を構える事あらば、是非とも御声をかけて下さりませ」とまで言ってきたのだから、余程の感謝の念があったのだろう。
 感謝される事に関しては悪い気はしないが、流石に景勝や兼続には悪いと思う。
 そう思って重家の言葉を聞いた後に俺は兼続の方を見たのだが、兼続の方も「戦後の論功における懸念が解決した故、助かりました」と小声で言ってきた。
 やはり、御館の乱の戦後処理の際の判断は兼続にとっても綱渡りの部分があったようだ。
 兼続と共に景勝を支える重臣である狩野秀治も同じ思いだったらしく、重家とのやり取りの後は俺に頭を下げていた。
 重家との事は戸沢家にとっても上杉家とっても大事であっただけに穏便に済んだ事が大きかったのだろう。
 後は重家に関するやり取り以外で気になった事があるとすれば、この時の紹介の中で繁長の言っていた事が少し気になるといったところか。
 繁長が言うには――――

「本当は御紹介したい者が一人居りましたが、生憎と此度は長楽寺の住職としての務めがあるため、来れぬとの事。何れ、最上との戦があれば御会いする事になりましょう」

 との事だが、最上家との戦の折に会う事になるのならば、それほどの人物であると言う事か。
 出羽国における戦において、最も強敵と成り得るのは最上義光であり、彼の人物に対抗出来るほどの人物となればそうは居ない。 
 繁長も義光に対抗出来る数少ない人物ではあるのだが、その繁長が推める以上、余程の人物である。
 一応、俺にも一人だけ心当たりがあるが、彼の人物とは現状の段階だと面識もないし、確証もないため、それ以上尋ねる事はしない。
 まだ、最上家と事を構えるまでには時があるのだから。
 後の事は景勝と話をする際に纏めれば良いだけの事である――――。
















「……戸沢九郎盛安殿。我が家の御招きに応じて下さり、この景勝、嬉しく思う所存」

 上杉家の家臣団の紹介が終わった後、いよいよ、上杉景勝との対面が叶う。
 満安を降した事と、家臣の鮭延秀綱によって小野寺家との戦に勝利し、出羽国でもその名が広まりつつある事情もあってか景勝も俺の事は興味を持っていたらしい。
 兼続の口添えもなく、俺に話しかけてきた事を踏まえると、無口で言葉少ない人物として知られる景勝にしては珍しいようだ。
 狩野秀治を除く、周囲に居並ぶ諸将の誰もが驚いた表情を見せていた。

「此方こそ、軍神の後継者たる上杉景勝殿と御会い出来て光栄に存じます」

 此度の盟友としての戸沢家と上杉家の話は俺と景勝の短い挨拶を皮区切りとして、これまた短いやり取りの中での会話を中心として進んでいく。
 挨拶の後に交わした話の内容は――――鎮守府将軍の事、出羽国の事、織田信長との事。
 何れも現状では一段落ついている事であるが、景勝と解り合うには俺の行なってきた事の全てを伝えなくてはならない。
 言葉少なく語り合う俺達の様子は淡々としたやり取りを行っているようにも思えるが、景勝の気質を踏まえればこれでも会話は弾んでいる方だろう。
 何しろ、俺と景勝の対話は半刻ほども続いたのだから。
 俺と景勝はその長いようで短い時間の中での会話で戸沢家と上杉家は共に道を歩めるだろうという確かな手応えを感じながら、会話を終えたのであった。





 両家の家臣達が居並ぶ中で行われた対話が終わった後、戸沢家の面々を歓迎するための宴が行われた。
 酒を嗜む者が多い上杉家では盛大に酒が振舞われ、戸沢家中での宴とは比べ物にならないほど豪勢だ。
 無礼講であるためか、勢いに任せるかのように繁長や貞興といった武辺者は早速、満安や昌長に手合わせを申し込み、余興として見せようとしている。
 と言うか、手合わせをしようとしている誰もが歴史に名を知られる武勇を誇る者達である事を考えれば余興では済まない事を気付いているのだろうか。
 戦場でも中々、御目にかかれないであろう組み合わせの手合わせは色々な意味で洒落になっていない。
 一瞬、止めようかとも考えたが……逆に俺もあの場に加わってしまいそうな雰囲気だっただけに断念する。
 此処は戦場ではないし、両家で手合わせを望んでいる者達も稀に見るほどの手練同士であるし、恐らくは大丈夫だろう。
 一応、見た限りでは意識もはっきりしているようだし――――そう思わなくては後々、取り返しのつかない事になりそうな気がする。

「……盛安殿。今後は如何するつもりだ?」

「そうですね……畿内での件を踏まえた上で領内を整備し、庄内を平定しようと考えています」

「成る程……大宝寺殿を討ち、繁長殿との繋ぎを取るのですな」

「はい。その後に我が戸沢家の宿敵である安東家との戦に挑もうと考えております」

 止める事を諦めた俺は同じく、繁長らを止める事を諦めた話す景勝に応じ、家臣達の振る舞いに苦笑する兼続も場に交えて今後の事について語る。
 本来ならば今後における戦略上の事は秘めなければならないものなのだが、義を重んじる景勝や兼続は信頼出来る人物であり、その懸念は殆どない。
 盟友を裏切らず、決して背後から寝首をかかないのは亡き上杉謙信の示した志であり、それを受け継ぐ景勝と兼続が背く事は考えられないからだ。
 他者を信頼し過ぎる事は戦国時代では命取りとも言えるが、この2人に関しては疑う事こそが非礼に値する。

「……ならば、その際に抑えるべきは最上、伊達か」

「それについては繁長殿、重家殿に万事、相談するが宜しかろうと存じます。大事があったとしても、繁長殿に話せば、あの方の知恵を御借り出来ると思いますし」

「……確かに御二人方の申される通り。その時は是非とも御力を借りさせて頂きます」

 それ故に俺も偽りなく全てを語り、二人の言葉に応じている。
 ましてや、景勝と兼続は俺が懸念している事を見事に言い当てているのだから、その言葉に頷かない理由がない。
 正直、安東家との戦の際に背後を狙われると致命的なだけに上杉家が積極的に協力してくれる事は有り難い。
 だが、景勝が抑えるべきといった大名に蘆名家が含まれていない事が気になる。
 蘆名家の事を踏まえれば、重家を積極的に動かす事は難しいはずだからだ。
 それを懸念した俺が、2人に尋ねると――――

「……む、畿内に居られたから盛安殿は御存知ないのか。……兼続」

「はい。盛安様は御存知ではなかったかもしれませんが、不識庵様以来の敵であった蘆名盛氏殿ならば――――先月に亡くなられておりますぞ」

 奥州でも非常に大きな影響力を持つ、彼の人物が亡くなったと言う答えが返ってきたのだった。
































 From FIN



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